No.33(2020) p.142-146
特集Ⅲ未来医学研究会のいま
BMC OB/OG近況報告 ~スイスで感じたFuture beyond the generations~
国立研究開発法人 理化学研究所 田中 信行
アルプスの大自然と人々の付き合い方、科学・技術・教育の考え方、そして日々の暮らしに垣間見える世代を超えた未来という視点。国際共同研究のため2019年6月から2020年1月までスイスに長期出張することになり、現地での人々との交流や共同研究先のスイス連邦工科大学チューリッヒ校での体験について綴ります。

 Grüezi mitenand! バイオメディカルカリキュラム43期卒業生であり、国立研究開発法人理化学研究所で研究員をしている田中信行と申します。スイスの最大都市チューリッヒに2019年6月から2020年1月まで国際共同研究のため滞在しておりました。この時の体験について、研究だけでなく暮らしや文化など身をもって感じたことをまとめたいと思います。なお、スイスでは、ドイツ語、フランス語、イタリア語、ロマンシュ語が公用語であり、特にチューリッヒはドイツ語圏に属していますが、日常的にはスイスドイツ語という標準ドイツ語とはかなり違う方言が話されています。冒頭の言葉はスイスドイツ語で「みなさんこんにちは」という意味になります。

 スイスといえば、アルプスをはじめとした豊かな自然が有名です。特に日本ではスイスの小説をもとにしたテレビアニメ「アルプスの少女ハイジ」が有名なことから、スイスの風景として山々の中に青々とした草原が広がるイメージがあります。滞在していたチューリッヒは、スイス随一の都市ですが、少し郊外に出ればまさに「ハイジ」の風景を感じることができます。滞在先のスイス連邦工科大学チューリッヒ校ヘンガーベルグキャンパスは小高い山の上にあり、近くの放牧地ではたくさんの牛たちが草をはむ様子を見ることができました。「自然」とは言っても、山、森、川、湖などよく手入れされており、自然環境を様々な形で活用しているように感じました。例えば、近所の山にはVerschönerungsvereinといって直訳すると美化組合という有志団体が100年以上前から結成されており [1]、遊歩道の整備や大量に発生する落ち葉の除去、木々の手入れなどを行い、自然を活かしながら通勤・通学のための移動手段や地域住民の憩いの場所としての価値を高めています。本格的な山岳地域においても、このような考え方に基づいて大規模な取り組みが古くから行われていることに驚かされます。例えば、ヨーロッパで最も標高の高い駅があるユングフラウ鉄道 [2]は、山岳地帯であるスイス中央部を、その景観や自然そのものを資源とした観光によって振興させるという目的のもと、1896年から1912年にかけて多数の犠牲を払いながら建設されたものです。これが今日、世代を超えてスイスの一大観光地に成長するきっかけとなり、実際に世界中の人々を惹きつけています。なお、開通当初から電化されており、豊富な水資源を利用した水力発電によって電力が賄われているなど、ここでも自然の活用という考え方を垣間見ることができます。

 豊かな自然は裏を返せば人間にとって厳しい環境とであると言えるかもしれません。自然と上手に付き合うには、科学的に裏打ちされた高度な技術が必要になります。現地に行ってから知ったのですが、私が訪問していたスイス連邦工科大学チューリッヒ校は建築学や環境・土木の分野が有名だそうで、よくキャンパス内で実際の山岳環境や都市景観を題材にした建築・土木関連の展示会・コンペが行われていました。科学技術と産業そして社会が緊密に連携していることがよくわかります。私は、メカノバイオロジーを研究されているビオラ・フォーゲル教授にお世話になったのですが、学術界と産業界の橋渡しを強力に支援する仕組みがあり、研究成果を社会に移行・還元させやすいとのことでした。実際に大学界隈にいると大学のスピンオフで働いている、大学などの研究成果をもとに製薬企業で働いている、スタートアップを立ち上げているというような方がいらっしゃいました。また、大学に投入される資金1に対して6倍を超える付加価値が生まれ、大学職員1人の雇用に対して5人の雇用が新たに国際的に創出されるというというような具体的な数字とともに大学の価値創造が紹介されており [3]、大学における教育、研究、そして産学連携といった活動が、豊かな社会の実現に貢献していることを表しています。一方、実際の研究の現場では、テーマ設定、達成目標、科学コミュニティに対する貢献や位置付け、実験手法、必要なデータ、予算の妥当性、法令・規則の順守、利害関係の調整といった項目を念頭に、準備を綿密にする傾向があると感じました。可能な限り無駄を減らしたいという原理が働くように思います。特に、PhDの学生であっても、ラボ内のメンバー同士だけでなく、時には近くのラボや他の機関の研究者を巻き込んで、研究に必要な体制を築いていくという様子には驚かされました。上下関係なく建設的なディスカッションができるというのは、多面的理解が要求される科学的研究において大変魅力的であると感じました。

 ちなみにディスカッションは何も仕事の話だけに限りません。社会問題や政治、暮らし、趣味、週末の過ごし方、出身地の名産などいろんな話題が飛び交います。ちょうどスイスに入国したすぐ後には男女の賃金格差やハラスメントの根絶を訴えるストライキがスイス全土で行われたり、グレタ・トゥーンベリさんの活動がきっかけとなったFridays for Futureのデモ活動が度々行われていたりと、あまり日本では見かけない出来事に驚いたのですが、同僚たちとの話の中でも、これらの話題を身近なこととして、また若者たちが将来について考えることは良いことと好意的に捉えていたのが印象的でした。

 滞在中は図らずもスイス人家庭の家にホームステイするような形になったのですが、様々な手続きや暮らしの情報を得ることができ、初めての海外長期滞在をスムーズに開始できました。また現地の方の習慣や考え方などを知ることができ、より深く馴染むことができるなどメリットが大きかったように思います。交流の中で印象に残っているのは、日本では長時間労働が話題になっているという話になった時に、私たちは3つの時間を大切にしていると言われたことです。それは仕事、コミュニティそして自分自身の時間だということです。生きるためには仕事は欠かせない。しかし社会や家庭といった健全なコミュニティがなければ仕事もままならない。そして、何より自分自身が健やかで余裕があることが、仕事やコミュニティによい貢献を持続的に行うために欠かせないということでした。

 冒頭で紹介した挨拶はコミュニティの一員であるためにとても大切で、商店に入ったときにも挨拶、バスの運転手さんや鉄道の車掌さんとも挨拶、山道や郊外で人とすれ違うときも挨拶というように、挨拶であなたに気付いていますよと表現し表現されることは、一瞬のことではありますが異国の地においてとても安心感の得られる体験でした。スイスはオープンマインドであることが一番の特徴と何人もの方が話していました。思えば、古来、山がちな内陸の土地に来た人たちが分け隔てなく未来の姿を描き、うまく暮らす術を模索しながら築いてきたこの社会を体験できたと思うと感慨深いものがあります。この経験を生かしながら、少し遠くの未来に目を向けていきたいと思う今日この頃です。


参考文献

[1] 例えば “Verschönerungsverein Höngg,” https://www.vvhoengg.ch/

[2] “Construction of the Jungfrau Railway | jungfrau.ch,” https://www.jungfrau.ch/en-gb/jungfraujoch-top-of-europe/construction-of-the-jungfrau-railway/

[3] 「2019 ETHグループの紹介と概要」、https://www.ethrat.ch/sites/default/files/ETH-Bereich_in_Kuerze_19_JAP_ds_0.pdf

(2020年2月26日受理, 2020年3月23日公開)


筆者近景。マッターホルンを望む。
田中信行 (たなか のぶゆき)

国立研究開発法人 理化学研究所 研究員

BMC43期

経歴(学歴、職歴、受賞、専門分野)

2011年、大阪大学大学院工学研究科博士後期課程修了。博士(工学)。2011~2013年、日本学術振興会特別研究員PDとして東京女子医科大学先端生命医科学研究所に勤務。2013~2015年、大阪大学大学院基礎工学研究科助教を経て、2015年より現職。第4回理研産業連携賞(2019年)、日本機械学会 ROBOMEC表彰(2013年)など受賞。バイオ界面の親水性を切り口に細胞の物性評価法の開発・応用に従事。