Vol.46(2014年1月15日配信)

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  新年あけましておめでとうございます。RegMed-now編集室です。
1月11日におこなわれたGCOEプロジェクト最終シンポジウムでは、多数のご参加を賜り、誠にありがとうございました。PDF版書籍の無料配布は、引き続きおこなっております。

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 今号からは、梅津光生先生のインタビューをお送りいたします。初回では、先生のユニークな研究者としてのスタートについてお話し頂きました。


【目次】

1. インタビュー企画 『未来医療への挑戦者たち』 シリーズ第10弾 梅津光生
●第1回「研究者・梅津光生ができるまで」

2. 再生医療トピックス
◇Society for Biomaterials 2014 Annual Meeting & Exposition 開催のお知らせ(2014/4/16-19)


1.インタビュー企画 『未来医療への挑戦者たち』 シリーズ第10弾
-早稲田大学 先進理工学研究科 生命理工学専攻 梅津光生

【プロフィール】
梅津 光生(うめづ・みつお)
1979年早稲田大学大学院博士課程単位取得後、国立循環器病センター、シドニー・セントビンセント病院客員工学部長を経て、1992年早稲田大学教授。2001年には早稲田大学大学院生命理工学専攻初代主任を務め、2008年より早稲田大学先端生命医科学センター(TWIns)センター長、2010年より東京女子医科大学-早稲田大学共同大学院共同先端生命医科学専攻長を務める。工学博士(早稲田大学)、医学博士(東京女子医科大学)。


☆シリーズ第10弾を読む > 第1回第2回最終回

●第1回「研究者・梅津光生ができるまで」

◆鉄道の研究を志し機械工学科に進んだはずが……

──先生はどのようなお子さんだったのでしょうか?

 僕は子どものころから大型の自動車や電車が好きで、生まれたころから家の近くにバスが走っていたこともあってはじめはバスが好きだった。当時はボンネット型のバスだから、エンジンはすべて個性があって、エンジンの音を聞けば、いすゞのバスだか、三菱ふそうのバスだかみんな分かったね。もう少し大きくなると、今度は鉄道に興味が出てきて、小学校4年生の時には、鉄道時刻表の虜になって、東海道本線の駅名は全部覚えてしまった。そんなことがあったから大学では鉄道をやっている研究室に行って研究したいと思っていた。それで土屋喜一先生の門戸を叩いたんだ。

──土屋研は鉄道の研究をなされていたのですか?

 土屋喜一先生は流体の制御がご専門だった。新幹線の関ケ原の消雪装置、雪を吹き飛ばすスプリンクラー、あれを作った人なんだよ。それが鉄道技術研究所と一緒にやった研究で、僕はそのことを知っていたから、その研究室のゼミに入ると鉄道の研究がいっぱいできるのかなと思っていた。でも、実際入ってみたら、もうそのプロジェクトは終わったと言われて、はしごを外されてしまったんだ。

──鉄道の夢を諦めて、医学の研究に進むのですね。そこにはどういった経緯があったのでしょうか?

 土屋先生は、機械学会4万人の会長もやったことのある機械工学で著名な先生だったんだ。その先生が、「これから医学の時代が来るから、工学と医学を一緒にやるんだ」と言われてね。振り返れば、土屋先生は日本のバイオエンジニアリングの草分けの人だったのだけど、僕はそのとき言ってしまった。「医学なんて関係ないじゃないですか。僕は機械工学をやりに機械工学科に来たんだ」とね。そうしたら先生は悲しそうな顔をして「君、関係ないと言ったね、関係というのはあるかないかではないんだ。いかにこじつけるかなんだ。人の体を見てごらん」と言われた。そうして僕は、確かに、人の体というのは流体の回路だと悟り、この分野に入ることを決意したんだ。人の体の中は、神経が血液やリンパなどの流体をコントロールしている流体制御だと、そういう考え方は面白い、それだったらやってみようかなと決意した。そうしたら、その次の日から、東京女子医科大学心臓外科で有名であった榊原仟(さかきばら・しげる)先生との共同研究に参加することになったんだ。

◆女子医大に育てられ、やがて大阪へ

──女子医大ではどのような研究をなさっていたのでしょうか?

 僕が、女子医大に連れて行かされた矢先、犬を使った実験を手伝わされたんだ。僕は犬が大好きだから、それがトラウマになって、途中でもう辞めようかと思った。だって、麻酔をかけて、あとはもう、それっきり二度と目が覚めないこともあるし体力が弱っていて麻酔をかけるだけで死んでしまう犬もいた。これでいいのかなと思ったね。それで、動物実験を完全になくすことはできなくても、9割減にできるテクノロジーを何とかつくろうかなと考えたんだ。

 その考えの基に、早稲田の修士の学生だったときに、人工心臓に関する流体回路を作った。そしてあるとき、そのデータを持って榊原先生が主催していた「あんぱん会」という心臓の勉強会に行って、自分のやっていることを話した。そうしたら、第一線の医学部の教授たちが「これは面白いぞ。きっと臨床医学に役に立つからどんどんやりなさい」「これを続けていれば医学博士も取得できるぞ」と。

 でも、実際、博士の学生となるために早稲田大学の入学試験の面接を受けたんだけど、そのとき理工学部の教授には「犬の実験だけでは工学博士は取れんぞ」とも言われた。僕もそれは分かっていたのだけれど、女子医大の先生の後押しもあったから、やろうと思った。

 僕には、自分が全く違う領域をやろうと思ったときに、「面白いからやれ、やれ」と言ってくれるサポーターがいたんだ。当時だったからできたことだけど、病院の中でカテーテル治療をする部屋に行ったり、手術室にも自由に入れたし、カルテでも何でも見られた。それで、言葉が分からなくてもみんなが快く教えてくれた。そういう非常に温かい女子医大の環境の中で、僕は育てられたんだ。

 博士号は結局、早稲田の学生時代にやった仕事を医学的にまとめて東京女子医科大学で医学博士を取得した。それから、別のテーマで5年くらい遅れて早稲田大学で工学博士を取得した。たまたま医学と工学の境界の研究をやっていたので、2つの学位が取得できたのだと思っている。

──それからどのような経緯で大阪に異動したのでしょうか?

 博士課程の時に、成果がまとまったもの生まれて初めて国際学会で発表したんだ。そうしたら、それを大阪大学の曲直部寿夫(まなべ ひさお)先生がたまたま学会の会場で私のプレゼンを聞いていてくれた。彼は、僕の発表を聞いて「こんな面白い話を聞いたのは初めてや。これからは、医学は工学と一緒にやらないといけないということがようわかった。今度大阪に国立循環器病センター(現・国立循環器病研究センター)という国の大きな施設がオープンする。そこには研究所も作る。そこで一緒に働かんか。」と言ってくれた。それで僕は大阪へ行くことを決意したんだ。実はそのとき、関西の女性とあるところで出会いがあって、お付き合いをしていた、それが今の妻になるんだけど、新幹線がなかったら、僕は結婚していなかったよ。新幹線というものも僕の人生にとって大事な要素なんだ。

◆結婚と就職と──苦しかった駆け出し時代

──大阪でプロの研究者としてスタートしたのですね。この時期に先生はご結婚なされたのですよね。

 ドクターの学生も三年目になって、3つのことが同時に重なったんだ。博士論文を仕上げるということと、就職を決めること、そして結婚をすることだよ。当時、国立循環器病センターは病院が開設されたばかりで、研究所はまだなかったんだけど、そこで就職して研究するにあたって、できることから順番にやろうと思った。博士号はまだ論文を書けなかったから見送って、まず結婚をしてしまおうと思った。当時うちの家内は兵庫県の伊丹に住んでいたのだけれど、2人で箕面というところに転居したんだ。でも、当時はお金がなくて本当つらかった、アパート代とか、どうやって生活していこうかというところから始まったからね。

 でも、もっと大変だったのが、お医者さんとエンジニアの待遇の差だった。同じ時間働いても、医師とエンジニアでは給料が全然違うんだよね。しかも、当時はまだお医者さんは国家公務員でも週末に外の病院を手伝いに行くアルバイトなんかができたんだ。ところが僕はできない。だって、週末に医師がいないので、僕らが土日に当直をやるんだよ、ヤギの当直を。

──辛くて辞めたいと思ったことはないのですか?

 辛かった、でも、そんな苦しい中で過ごしながら、そのときに励まし続けてくれた人がいたんだ。それが病院長の曲直部先生。先生は朝、公用車で来て、病院の前ではなくて、研究所の前につけるんだ。研究所の7階が僕の実験室だったんだけど、月曜日の朝になると曲直部先生が「おはようさん、どうや」と言って現れるんだよ。 当時はヤギに人工心臓をつける慢性実験をやっていて、初めは人工心臓をつけるとヤギが弱ってしまうことが多かった。そうすると夜中、ほとんど寝られないんだよ。土日なんかでも、ヤギの状態をギリギリで保ってお医者さんが来るのを待っていたりして、本当に大変だった。一通りそんな実験の話をした後、帰り際に先生は「すまんな。君がこうやって週末も一生懸命やってくれているのをわしはちゃんと知っとるんやけど、厚労省に掛け合ってもどうにもでけへん。でも君はね、ここにいることで、将来とてもいいことが起こるような気がしてならんのや」といつも言ってくれていたんだよ。僕もね、大変だけど別に嫌ではなかった。とにかく、楽しくやらなければいけないと思っているから。どんなところでもそうだよ。楽しまないとだめだね。人にやらされていると思ってはだめだ。自分で楽しいことを見つけていかなければ。

◆エキサイティングな研究と型破りな論文で有名に

──医学部の中で工学の論文を出すということで何か工夫はあったのですか?

 医学の論文というのは、フォーマットがちゃんと決まっているんだ。症例がいくつあって、これこれを分析して、出して、考察はこうやってこうやるという具合に。でもそれで「その論文、一体何人ぐらいが読むんだ」「一生懸命書いても、あまり読んでくれないんじゃないのか」なと思った。じゃあ、オリジナリティーのある、他と差別化できるような論文を書くにはどうすればいいだろうと考えたとき、もっと世の中と違う形の論文を書いたらいいのかなと思ったんだ。僕はエンジニアなんだから、違う形で論文を書いてやろうと。切り口を全く変えて論文を書き出したんだよね。

 一例をあげると、心臓弁膜症の外科治療に使う複数の人工弁を、患者の集団を作って比較する研究が一般的な時、複数の人工弁の人工心臓を使って、すべての流体特性を同一条件で比較する、という論文を出した。そうするとウケて、みんなが読んでくれた。いま日本で、いろいろな大学の心臓関係で教授になっている人たちは、僕が初めに書いたような論文を読んで育っている人がたくさんいる。次はどんな話が来るのかなと、みんな思っていたらしいよ。国立循環器病研究センター病院副院長の小林順二郎先生も、やっぱり「先生の論文を読んで育ちました」と言っていたからね。

──どのような工夫があったのでしょうか?

 もう少し具体的に言うと、普通は新しい人工弁が商品として出されると、これを5例入れて、本邦初のこういう例がこれだけ出ましたというのを出す。ところが僕の論文は、日本でその年に出た10個ぐらいの弁を全部並べて、僕らが開発したシミュレータの中で同じ条件下での試験をして、どの弁がいいとか悪いとか、こういうときに気を付けろというのを出した。人工心臓を使うので、心臓の機能を一定にして比較実験ができるわけだ。

 日本だけではなくて、世界で当時一番広く使われていた「Bjork-shiley」という人工弁を作ったViking Bjork先生が国際学会でいろいろな人がいる中で、30ちょっと過ぎの若造だった僕を見つけて「とにかくおまえに会うのが楽しみでしようがなかった。いま一番エキサイティングなことを何でもいいから教えてくれ」と言ってくれた。僕がエキサイティングな研究をしていることを知っていたわけだよ。そんなふうだから、日本の心臓外科医で、当時バイオエンジニアの僕の名前を知らなかった者はいなかったのではないか、と思うね。

◆はっきりした物言いで大御所にも恐れられる存在に

──先生のような工学者の存在が国立循環器病センターのなかで欠かせない存在となってきたのですね。病院内ではどのような存在だったのでしょうか?

 僕は相手が誰であろうと言いたいことははっきりと言っていたんだ。だって曲直部先生とも1回大げんかをしたことがあるんだよ。曲直部先生は当時、循環器病センターの総長をやっていたけれども、さらにその昔は阪大の第一外科の主任教授。僕みたいな若造に、がーっと意見なんかを言われることなんて医学の世界では絶対ありえないよね。でも、僕は言ったんだ。

 当時、人工心臓がある程度できたので、患者に使い始めるときがきた。国立循環器病センターで開発した技術をベースに東洋紡が商品化した。その補助人工心臓が患者にとって安全に使えるかどうかを調べる、臨床試験をやるということになったんだ。そこで、どこの病院で患者に使っていこうかという話し合いの場があった。当然、国の循環器病センターはもちろんだよね。それから兄弟病院と言っていいのかわからないけれど阪大病院。あと、桜橋渡辺病院は手術もできる一般の病院で、それも阪大系列。部長の高野先生が「総長と一緒に、それを決めてきた」と言うから「えっ、そんなのって、よくないんじゃないの」と僕が言ったわけ。「ここでナショナルセンターの成果としてやったことは日本全国に還元すべきであって、阪大の系列病院の中でちまちまやる話と違うでしょう」と。

 すると部長は「でも、もう決めてきたんやから。厚生省にも、それでいま登録届けを曲直部先生から出してしもうた」と言ったわけ。「冗談じゃない!僕は別に阪大の医局の人間ではない、阪大のために勤めているんじゃないんだから。」「でも、僕ではどうしようもない」なんて弱気なことを言う部長に、「それじゃ、自分で掛け合ってくる」と言って、曲直部先生の部屋に飛んで行った。そこで、「先生、僕は言いたいことがある、先生はナショナルセンターの長である以前に、阪大の名誉教授なのでしょうか」と。そしたら「何でそんなことを言うんだ」と言うから「だってそうでしょう。今のものの決め方、阪大を中心にという決め方は、ナショナルセンターの長ではなくて阪大の名誉教授だからそういう言い方をしたんだ。他の説明ができますか」と。そうしたら「うーん」と言って、多分そんなことを言われたことがないと思うんだよね。がつんと言ってしまったから。でも僕は、曲直部先生はすごく偉いなと思った。しばらく考えて「分かった。いまから電話する」と言って、厚生省に「さっきの話はしばらくやめてくれ」と言ってくれたよ。先生が偉いところは、フレキシビリティなんですよ。

 その後、東京女子医大、東北大、九大などで、この補助人工心臓の臨床評価が広く行われることとなった。

・・・・・・・・・

<第2回 「人とのつながりで広がる世界」に続く>

(インタビュアー:RegMed-now編集室/ 編集:RegMed-now編集室・MDS・シーニュ)

*本インタビューのご感想をぜひお寄せください。
regmed-infoabmes.twmu.ac.jp

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2. 再生医療トピックス

◇Society for Biomaterials 2014 Annual Meeting & Exposition 開催のお知らせ

会期:2014年4月16日-19日
会場:コロラド州デンバー
URL:http://2014.biomaterials.org/





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