Vol.22(2012年1月19日配信)

>>アーカイブ一覧へ

前号 | 次号

 あけましておめでとうございます、RegMed-now編集室です、本年もよろしくお願いいたします。今回は、新春第1号を記念して、本グローバルCOEプログラムのリーダーを務めている大和雅之先生から若手研究者へのメッセージをいただきました。さらに、好評を博しているインタビュー企画では、組織工学の黎明期を駆けてきた金沢工業大学の松田武久先生のインタビューをお送りいたします。松田武久先生は、日米の大学、企業両方を経験している非常に貴重な体験をもつ先生で、表面化学の立場から、人工臓器の研究に従事してきました。まだ、再生医療などという言葉がないころから、医工学の重要性に着目し、バイオマテリアルの世界を支えられてきた先生です。今回は、その初回として、先生の子供の頃から科学者になることを決めた大学院時代までのお話を伺いました。


【目次】

1. 新春のご挨拶 東京女子医科大学 大和雅之

2. インタビュー企画 『未来医療への挑戦者たち』 シリーズ第4弾 松田武久
●第1回 「夢のエンジニアからサイエンティストへ」

3. 再生医療トピックス
◇第11回日本再生医療学会総会、国際幹細胞学会(ISSCR)開催のお知らせ(2012/6/12-16)
◇The 39th Annual Meeting & Exposition of the Controlled Release Society開催のお知らせ(2012/7/15-18)

4. ABMESダイジェスト
◇肝微小構造を模倣する新規積層培養法の開発(金京淑ら)


1. 新春のご挨拶
-東京女子医科大学グローバルCOEプログラム「再生医療本格化のための集学的教育拠点」
 拠点リーダー 大和雅之

 優れた研究者になるには、優れた研究者の背中を見て育つのが一番。この観点から、とても興味深い本が最近出た。阪大医学部仲野徹先生の『なかのとおるの生命科学者の伝記を読む』である。野口英世やヒューマンゲノム解読競争の勝者Craig Venterの伝記を紹介しながら、仲野先生の研究哲学・人生哲学が行間に滲み出てくる、なかなか味わいのある本である。我々は、この本に出てくるような天才ではないが、天才の背中を見て学び取るべき事柄は仮に反面教師的であるとしても決して少なくない。付属校に通っていなかったとしても、今の日本では研究者を目指すような子供には大学院まではエスカレーターであろうが、大学院進学以降はそうなってはいない。自分の将来を見据えた人生設計の絶えまざるチェックと自らの実力の客観的な見極めが、独創的な研究活動と共に求められる。

 さらに、良き同僚の存在もきわめて重要である。MacintoshやWindowsに見られるマウスとアイコンを多用するグラフィカルユーザーインタフェース(GUI)は1970年代に隆盛を極めたXEROX社のPalo Alto Research Center (PARC)で開発されたものだ。PARCを見学に訪れた、当時Appleの社長であったSteve Jobsがデモに驚愕し、MacintoshのGUI開発がスタートする。PARCの研究者たちはそれまでにも多数の業績を上げた優秀な若手であったが、そのほとんどがPARC在籍期に最も優れた仕事している。PARCは当時好業績を誇っていたXEROXのきわめて潤沢な資金を得ていたとはいえ、単に物理的な要因だけでなく、ハードウェアからソフトウェアまで超優秀な研究者が一つ屋根の下で切磋琢磨するという人的環境要因も決して小さくない。我々の研究所も再生医療版PARCを目指したいし、そのために若手の育成にもますます力を入れたいと決意を新たにしている。

▲ページトップへ


2.インタビュー企画 『未来医療への挑戦者たち』 シリーズ第4弾
-金沢工業大学 松田武久

【プロフィール】
松田 武久(まつだ・たけひさ)
1968年京都大学工学部燃料化学科卒業。1968年三井東圧(現 三井化学)(株)技術研究所に入社後、1972年、京都大学で博士号を取得。その後、渡米し、ケース・ウェスタン・リザーヴ大学で博士研究員、米国無機化学メーカーのローム・アンド・ハース社の中央研究所で研究に従事。1980年、設立されたばかりの国立循環器病センター研究所人工臓器部に研究室長として就任。1998年、九州大学大学院医学研究院医用工学分野教授、2006年、金沢工業大学のゲノム生物工学研究所教授に就任。


☆シリーズ第4弾を読む > 第1回第2回第3回最終回

●第1回 「夢のエンジニアからサイエンティストへ」

◆数学は大好き、化学・生物は大嫌いだった

――先生の小さい頃の夢は、どんなものだったのでしょうか?

松田 サイエンティストということではなくて、エンジニアでしたね。小さいときから、実験することが大好きだったんですよ。何かでお駄賃をもらうと、それを貯めてアルコールランプを買ったりしていました。僕は小学3年生で塩酸まで持っていたよ(笑)。「大事に使いや」と言われて。水の中にダーッと垂らすとバリバリと鳴ったりする。危ないけれども、そういうことをやっていた。おふくろは「変わった子だな」と思っていたでしょうね。

――好奇心から危険をものともせずに……。

松田 薬学出身の父親が大学のときに使っていた実験書が本棚にあって、そこに書いてあることをやりたかったんです。ニンヒドリン反応とかね。それから、僕が小学5年生だったときの担任の先生の影響もあったのかな。ちょうど大学を出た直後の若い先生で、こういう実験をしたら呈色反応がこうなったとか、よく話をしてくれました。原理が分かって実験をやっていたわけではないんです。マジックを披露するようなもので、友達の目の前で「色が変わります」と言ってパッとやったら牛乳の色がサーッと変わる。それが面白かったんですね。

――中学・高校の頃はいかがでしたか?

松田 中学生のときかな、後に僕の師になる福井謙一先生(京都大学)の業績が京都新聞に載ったんですよ。数学で化学反応を解き明かすという内容で、1962年、37歳で日本学士院賞を獲られた。その後、1981年にノーベル化学賞を獲られたことはあまりにも有名ですよね。僕が中学・高校生の頃は、化学が大嫌いだったんです。覚えることばっかりでしょう。生物もそうですよね。葉っぱの種類とか、○○科の××とか、何て面白くない授業だろうと。高校の生物の授業のとき、教室の後ろでガアガア言っていたら、先生に「ちょっと来い」と連れて行かれて、「お前、60点をやるからもう授業に出てくるな」と言われたんですよ(笑)。今の生物はDNAの話とか面白いと思うけれど、あの頃はそうじゃなかったですよ。英語の単語を覚えるのだって、「何だこれは」と思っていました。
 一方で、自分で言うもの何だけれど、数学はものすごくできていた。好きだったんですね。例えば、幾何で補助線をどこに引くかというのがあるでしょう。あれを考えるのが面白かったですね。そういうわけで、「考えるのが好き、覚えるのは嫌い」というはっきりとした志向と、子ども時代に実験もどきで遊んだ体験から、「化学反応が数学で解けるというなら、大学に入って勉強するのは新聞で読んだ福井先生のところだろう」と思うようになったわけです。

――運命的なものがありますね。

松田 当時の僕はエンジニア志向でしたから、「サウジアラビア辺りに行って石油化学をやりたい」と思っていました。夜も煌々と灯りがともる銀色のプラント、そこにヘルメットをかぶって胸を躍らせる男……、そんなイメージですかね。それで、工学部の燃料科学科に入りました。
 同じ学科の同級生が30人いたんですが、そのうち15人が福井先生の講座を希望して集まってきました。「就職が難しいから」とか何とか言って、だんだんと減っていき、最後は6人になったんです。でも、定員枠には1人多いですから、減らさないと駄目でしょう。今でも思い出しますが、時計台の下の芝生のあるところで、あみだくじをやったんですよ。人生をそれで決める(笑)。その後、福井先生にあいさつに行ったら、「松田君は、いったい何のために来るんですか?」と聞かれてびっくりしました(笑)。

――それはどうして聞かれたのですか?

松田 どうしてなんだろう(笑)。福井先生に「大学院に行く」と伝えたときも、びっくりされていましたね。「大学院には行かないほうがいい」と言って机から名刺を出してきて、「松田君、ここはどうだ?」と。それを見たら、「住友商事」と会社名が刷ってあった。当時は工学部から商社に行く人はあまりいませんでしたが、今はそうでもないでしょう。結局、僕はマスターを出てから三井化学に入社しました。ものすごくうれしかったんですよ。「おれは重役になる」とか思ってね。

◆マスターコースを出て、就職。ところが……

松田 そうこうしているうちに、僕がついていた助教授の先生が、別の研究室の教授に昇格したんですよ。そして、僕の家まで来て両親を説得したうえで、「松田君、ドクターコースで帰ってきたまえ」と言う。そうしたら、会社との三角関係でややこしくなってしまって、「それじゃあ、僕はドクターコースに行きます」と言いました。「大学に戻ったら、すぐ助手になれ」とも言われたけれども、僕は転職はしないということで会社に説明してきましたからと。大学紛争のご時世でしたが、ドクターコースを出たら世界のどこにでも行けるライセンスを得るようなものでしょう。それでアメリカへ行くことにもなったわけだけれど。
 でも、こうしてドクターコースに帰ることになって、福井先生にはものすごく怒られました。「僕は君を推薦したんだ。推薦状を書いたのに、こんなに短い期間で帰ってくるとは何ごとだ」とね。

――三井化学には何年いらっしゃったんですか?

松田 1年です。

――それでもう1回京大に戻ってドクターですか?

松田 そうです。だから、ものすごく怒られましたよ。極めてキツかったですね。でも、それは当然だと思いましたよ。福井先生の家にそのことを報告に上がったときは、しかられはしませんでしたけれど、「お客さん」として扱われたのです。僕を床の間のほうに座らせた。そして、帰るときには「お忙しいところを来ていただきまして」と、額を畳にすりつけんばかりに……。今思い返しても冷や汗が出ますね。
 それからもなかなか許してもらえなかった感じでしたが、あるとき状況が変わりました。福井先生は京大で心臓内科の先生にかかっていたんですが、その先生が福井先生に対して、「先生のお弟子さんで、国立循環器病センター(現在の国立循環器病研究センター)で人工臓器をやっている人の講演を聞きました」と言って、ほめてくれたらしいんです。福井先生はそれをいたく心にとめてくださって、それからちょっと風向きが変わったんじゃないかな。
 例えば、正月の3日には、福井先生の北白川の大きなお宅に教え子たちが集まるんですが、そのとき誰かが福井先生に、「先生(ノーベル賞)に最も近い人は誰ですか?」と尋ねた。その場には僕もいましたが、ほかに東大や京大の教授になっている人もいるわけですよ。それぞれが「おれかな?」という自負心があったと思います。そうしたら、チラッと僕のほうを見て、「それは松田君だろう」とおっしゃった。「何で、あの出来の悪い松田なんだ?」ということで、どういう説明があるかみんな聞き耳を立てていました。福井先生は、「量子化学を続けている人間は僕の足跡を追っている。松田君は、厚生省の研究機関でゼロから医用材料をスタートさせた」と、そういうところを見ておられました。

――それはうれしいですね。精鋭の中で、ということですから。

松田 ええ。でも、みんな本当にびっくりしていたな。優秀な人がたくさんいたからね。思い起こせば、大学院に進むときも大変でしたね。何しろ30人の同級生のうち、学部を卒業して就職するのは3、4人なんです。だから、26、7人がマスターコースを受ける。受かるのは18人ですから、大学入試験より難しいと思いました。
 それに、他大学からも来ますからね。だから、みんな友達との遊びも断って血眼でね。でも、大学院の試験を滑ったからといって、人生はそれでおしまいではないんですよね。滑ったから人間が練れて、大会社の社長や会長になっている人もいる。人生いろいろですけれどね。だから、今の僕くらいの年齢になったら、「この人は将来伸びるだろうな」とか、「この人は将来ここでおしまいかな」とか、積み重ねてきた人生経験から、ふっと分かるようなところもありますね。40歳代では、まだ分からないですね。走っている最中だから。50歳代の後半ぐらいから、分かってくるでしょう。まあ、みなさんも頑張ってください(笑)。

――何かに行き詰ったとしても、まだまだということですね。

松田 そう。それが人生の面白いところじゃないですかね。そう思いますよ。

僕は大学で量子化学の研究室に入ったんです。膨大な計算が必要な分野ですが、そのときはコンピュータがなかったんですよ。だから、タイガー式の卓上手回し式計算機を使って、ハンドルをガラガラ回しながら計算するわけです。現代の方は知らないと思うんですが(笑)。

――想像がつきませんね(笑)。

松田 ハンドルをガラガラと回して「チン」と鳴って計算結果が出てくる。それを書きとめる。その繰り返しなんですよ。家に帰ってもやらないと間に合わないですね。そうすると、隣で兄貴が寝ているから「やかましい」と言われて、布団の中でやっていましたよ。本当に大変でした。
 ようやく、僕がマスターコースの終わりぐらいに、東に1台、西に1台というかたちで、京大にIBMのコンピュータが導入されたんです。FORTRANという言語が使われていました。当初、FORTRANのコードはテープに打ち込んでいたわけですよ。間違えたら、また初めから。その次にはカード式になって、カードを1枚ずつパンチしていった。そして、パンチしたカードを受付に提出して計算してもらうのです。1000枚ほどの束を渡して、1枚でも間違っていたら計算できない。そのうえ、「特急」と「急行」と「鈍行」に分かれていて、料金が違うんですよ(笑)。こんなんでいいのかなと思ってね。
 ドクターコースまで量子化学的なテーマを続けていったんですけれども、今のようにコンピュータ全盛の時代からは考えもつかないような、いろいろな困難がありましたよ。

・・・・・・・・・

第2回 「“Taki, this paper is so cute.”」に続く

(インタビュアー:RegMed-now編集室/ 編集:RegMed-now編集室・シーニュ)

*本インタビューのご感想をぜひお寄せください。
regmed-infoabmes.twmu.ac.jp

▲ページトップへ


3. 再生医療トピックス

◇第11回日本再生医療学会総会、国際幹細胞学会(ISSCR)開催のお知らせ

 日本の再生医療研究最大の学術集会である日本再生医療学会総会がパシフィコ横浜で開催されます。今回の学会は、同時期に幹細胞研究で最も権威のある国際幹細胞学会が合同(14日のみ)で開催されます。多くの方のご参加をお待ちしております。

▼第11回日本再生医療学会総会
日程:2012年6月12日(火)-14日(木)
会場:パシフィコ横浜
演題締切:2012年1月25日(水)
URL:http://www2.convention.co.jp/11jsrm/index.html
▼国際幹細胞学会(The international society for stem cell research (ISSCR) 10th annual meeting)
日程:2012年6月13日(水)-16日(土)
会場:パシフィコ横浜
演題締切:2012年2月1日(水)
URL: http://www.isscr.org//AM/Template.cfm?Section=Annual_Meeting_Home

- – - – -

◇The 39th Annual Meeting & Exposition of the Controlled Release Society(CRS)
開催のお知らせ

 DDS(薬物送達システム)の国際学会であるCRSの演題募集の締め切りが近づいております。本年度の大会はカナダのケベックで行われます。参加予定の方はご確認ください。
日程:2012年7月15日(日)-18日(水)
会場:Centre des Congres de Quebec, Quebec City, Canada
演題締切:2012年1月26日(木)(現地時間)
URL:http://www.controlledreleasesociety.org/MEETINGS/ANNUAL/Pages/default.aspx

▲ページトップへ


4. ABMESダイジェスト

東京女子医科大学 先端生命医科学研究所(ABMES)の注目の研究成果をわかりやすくお届けするコーナーです。
<最新論文紹介>

◇肝微小構造を模倣する新規積層培養法の開発
  金京淑(Kyungsook Kim)ら著

 肝細胞を用いた新規培養系の開発は、再生医療への展開や薬物動態の評価系など様々な側面から期待されている。本研究では、生体肝臓の構造ユニットである肝細胞索を模倣した培養系の確立を目的に、培養肝細胞上に血管内皮細胞をレイヤー積層させる培養系を開発し、肝細胞の構造および機能について従来法の単層肝細胞培養と比較検討を行った。
 その結果、従来の単層培養と比較して、積層培養では肝細胞の立方構造が良好に保たれ、発達した毛細胆管を構築した。また、毛細胆管周囲に存在するclaudin-3の免疫染色や胆汁酸のアナログであるcholyl-lysyl-fluoresceinの取り込み排泄の検討から、機能的biliary surfaceを長期間保持していることが明らかとなった。積層培養では単層培養と比較して、約1ヶ月間有意に高いアルブミンおよび尿素合成能を示した。生体肝類似構造を培養系で再現することに成功し、本培養系により機能レベルの高い肝細胞培養が長期間可能となることを明らかとした。

Preserved Liver-Specific Functions of Hepatocytes in 3D Co-culture with Endothelial Cell Sheets
Biomaterials, 2012, 33(5), 1406-1413.doi:10.1016/j.biomaterials.2011.10.084




>>アーカイブ一覧へ

前号 | 次号