Vol.19(2011年10月20日配信)

>>アーカイブ一覧へ

前号 | 次号

 こんにちは、RegMed-now編集室です。秋も深くなり、学会シーズンが到来してきましたがいかがお過ごしでしょうか?今月号からはインタビュー企画の第3弾として、歯周組織の再生に挑んでいる石川烈先生のインタビュー記事を三回にわけて配信させて頂きます。石川先生は、歯周組織再生の研究だけでなく、歯周病関連の著書を多数執筆、そして、フランスの歯を題材にした絵本やフランスのシャンソン歌手の「La Vie c'est comme une Dent(人生は歯のようなもの)」という曲の翻訳なども手がけており、予防にも大変力を注いでいる研究者です。そして、実は皆さんも一度は必ず聞いたことのある有名な歯科運動の発案者でもあるのです。この全貌はインタビューで明らかになりますので、是非最後までお付き合いください。


【目次】

1. インタビュー企画 『未来医療への挑戦者たち』 シリーズ第3弾 石川 烈
●第1回 「繊細に悩み、大胆に飛び込む」

2. 再生医療トピックス
◇第2回G-COE公開シンポジウム「来たれ!次世代先端医療の挑戦者たち」開催のお知らせ
◇第51回東京女子医科大学学園祭 女子医大祭のお知らせ
◇Italy-TWIns-Waseda2011-Bioengineering- 開催のお知らせ
◇第四回シンポジウム「細胞シート2011 ~医療が変わる CSTECが変える~」開催のお知らせ

3. ABMESダイジェスト
◇細胞シートの早期回収を実現した温度応答性ブロック共重合体ブラシ表面の構築(松坂直樹ら)
◇透き通るハダ!!透明化真皮による自家角膜実質移植(田中佑治ら)


1.インタビュー企画 『未来医療への挑戦者たち』 シリーズ第3弾
-東京女子医科大学 先端生命医科学研究所 石川 烈

【プロフィール】
石川 烈(いしかわ・いさお)
1940年生まれ。歯学博士。 1965年東京医科歯科大学を卒業。 1968年からスイス ジュネーブ大学で助手を務め、1971年東京医科歯科大学大学院歯学研究科博士課程修了。その後、東京医科歯科大学で助手、講師、助教授を務め、 1984年より同大学教授、 2000年より同大学院教授となる。 2005年より同大名誉教授となり、この年より東京女子医科大学 先端生命医科学研究所の客員教授となる。現在は、同研究所の顧問として歯周病再生研究、後進の育成に力を注いでいる。


☆シリーズ第3弾を読む > 第1回第2回最終回

●第1回 「繊細に悩み、大胆に飛び込む」

◆自分を見つめる旅で得たもの

――先生は、どのような子ども時代を過されたのでしょうか?

石川 私が生まれたのは1940年(昭和15年)で、太平洋戦争が始まる1年前でした。5人きょうだいの3番目。生まれ落ちたのは大阪ですが、父親の仕事が京都の大学でしたので、その後すぐ京都に移り、その後東京、ついで川崎に移り、やがて神奈川県立川崎高校に入り、それから東京医科歯科大学に進みました。
 まあ、わがままでマイペースな子どもでした。自己主張が強くて、学校の先生からすごく好かれる場合も、ものすごく嫌われる場合もありましたね。

――子どもの頃、科学や医学に興味を持たれたきっかけはあったのでしょうか?

石川 いや、ない(笑)。自分が本当に何に向いているかわからなかった。大学受験のときも、いろいろな学部を受けたのです。当時の国立大学の入試制度では一期校、二期校と分かれていて、一期の段階でそれなりの大学には受かっていました。医科歯科大学は二期校で競争倍率だけはやたらと高く、友達と「受かったら何かもらえる」という賭けをして願書を出しておいたのです。リラックスした気分で受けたら受かってしまった。
 一つだけ言えることは、生物学は好きだったんです。父親は物理学が専門でしたが、あれはどうしても苦手で、最初に習う先生の質によって、ずいぶん左右されるんじゃないかという気が今もします。導入部をうまく教えてもらえれば、すっと入っていけるのだけれど、変な数式ばかり覚えろと言われて、どうしても好きになれなかったですね。
 でも、医学部に進むということであれば、やはり人間の死と向き合わなければいけない。「自分には何でもできるんだ」という自負があった一方で、「誰かの死の責任を持つことができるだろうか?」「自分はそれだけのことをできる人間だろうか?」ということは、何度も自問していました。

――幼い頃に戦争の時代を過ごされたことからも、「人の死」のとらえ方に影響があったのでしょうか?

石川 そうだったのかもしれませんね。とにかく、「自分は医師になって人の死を看取るようなことは無理だ。もう少し楽なほうが向いている」ということは考えました。
 入学するやいなや、教養の2年間は安保闘争ばかりでした。いわゆる60年安保の時代ですね。積極的に参加しようと思わなくても、大学の前にバスが待っていて、うっかり乗ったら国会に連れていかれてしまうのです。一応、授業はあったけれど、休んでも何も言われないし、先生も学生と一緒に討議したりね。非常に特殊な時代でした。続いて70年安保の時代になると、運動が先鋭化してしまって、凄惨なことになりましたね。私はそのときはちょうど外国へ出ていたのですが、卒業式ができなかったり、クラスが完全に派閥に分かれてしまって互いに口もきかなかったり、という状況だったそうです。
 いずれにしても、大学では歯科医としての勉強をちゃんとやりました。ただ、国家試験に受かった後、登録は2年くらい先にした。それでも誰も何も言わない。だから、ある意味では、ものすごくのんびりした時代でした。

――登録までの2年間は留学をされていたのですか?

石川 いや、大学院に進む頃から、自分を見つめ直す旅というか、「自分は歯科医に向いているのか?」と、改めて考え出すわけです。道を歩いていて小さな歯科医院を見たら、「おれもこんなふうになるのかな?」と。収入は得られるかもしれないけれど、あまり面白くないというか、何かもっとやることがあるのではないかと思ってしまう。
 それに、歯科の教育そのものも、習っていてあまり面白くなかったのです。歯科の学問体系が、私に言わせれば物足りなく感じた。虫歯はどうやって治療するか、もう少し悪くなったら神経の治療をどうするか、次は抜いたらどうするか、入れ歯はどうするか……。歯科の学科というのは、当たり前かもしれませんが、原因探索より治療方法の授業がずっと続いていくわけです。

――もっと視野を広く持ちたかったということでしょうか?

石川 医科歯科大学のいいところの一つは、教養の科目、それから基礎の科目の半分程度は、医学部生も歯学部生も一緒に受けられること。解剖なども一緒。そういう交流の中で学んでいましたから、いざ専門の科目に入って、「思っていたことと違うな」という感じはありましたね。そうはいっても、歯科の中でサイエンティフィックに、きちっと病因に基づいた研究ができるのは何かと考えたときに、歯周病が一番いいのではないかと思った。私は入れ歯を作ってもあまり上手ではなかった。中には非常に器用で、心優しくて、とてもきれいに作る学生もいましたが、そういう人はやはり補綴科に行く。医科に似たことをやりたい人は口腔外科に行く。当時は矯正も人気があった。しかし、歯周病に行く人はあまりいなかったのです。

――では、超先駆けですね?

石川 結果的には。当時は、「何でそんなところに行くの?」と、皆に言われましたよ。実際、最初はプラークコントロールやブラッシングというようなことばかりやらされて、「これがおれの望んでいたことか」と、また自問自答して……。
 でも、医科歯科大学の歯周病学の初代教授は新潟大学の病理学からこられた今川与曹先生ですが、何となく意気投合するというか、私の考え方と似ていた。今川先生が「君は何をやりたいの?」と言われたので、「もうちょっと生物学的なことをやりたいです」と言って、歯肉の組織培養をやるようになりました。

◆ジュネーブ大学でフランス語に四苦八苦

――その後、大学院の途中で、海外に出られたとうかがいました。

石川 大学院3年のとき、スイスのジュネーブ大学で助手のポジションがあるという話がありました。でも、私なんて一番若かった。先に1人だけすでに行かれた先生がいましたが、それは講師くらいのクラスでした。誰か手を挙げるかなと思っていたら、全部フランス語で講義をする必要があるからと怖がって、誰も手を挙げない。それで私に行かせてくれるかと手を挙げたら、何とお鉢が回ってきた。
 それで慌てて、お茶の水にあるアテネ・フランセにフランス語を習いに行ったけれども、全然分からなかった。ドイツ語は必須科目だったから、ある程度やっていましたが、フランス語は付け焼刃で3か月勉強したくらいじゃ、どうにもならなかった。オーディオビジュアル科というところに入ったら、初めからフランス語で質問される。絵を見せられて答えを迫られる。かなりレベルの高い人が入る科だったのです。もうちんぷんかんぷんで、何も分からなくて、ぼけーっとしていた。そういうところはわりと大胆なのです。ある意味では厚かましい。周りの人がカンニングペーパーを回してくれて、それを見て答えていた(笑)。
 現地に渡ったのは、大学院4年生の6月頃だったかな。当時は今とは違って、「外国へ行くならば休学しなければいかん」と言われていたので、気にせず休学しました。あと半年我慢していれば修了できたのですが、もう学位論文は書き上げてあったので、心残りは何もなかったのです。

――さすがに大胆な行動でいらっしゃいますね。

石川 今の若い人は見ていて本当にかわいそうなぐらい就職も大変だし、助手にもなかなかなれないじゃないですか。でも当時は、大学院を出れば、なんとか助手になれる時代でした。だから、先のことを心配しなくてよかった。
 出発は羽田空港からでしたが、バス1台で皆が見送ってくれるのです。当時は、誰かが海外に行くときは皆で羽田まで行って、万歳三唱して見送った。小田実の『何でも見てやろう』がはやっていた時代で、「日本の中にいても道は開けない」という感じを、皆がある程度共有していたんじゃないかな。

――語学面での不安は解消されていたのでしょうか?

石川 フランス語は不安だらけでしたよ。ある程度、英語は勉強していましたが。ちょうど今の代々木公園が米軍のキャンプ地だった時代で、彼らの奥さんが1時間いくらで英語を教えてくれていたので、そこで習っていました。ジュネーブ大学に赴任したら、すぐに臨床に出されましたから、技術的なことはできても言葉でつまずけばアウトです。「お前は役に立たないから帰れ」と言われて帰国させられた人が何人かいました。
 ジュネーブはWHOなどの国際機関を擁する美しい街で、多くの日本人も住んでいましたから、私も最初はそこに住みたかった。ところが、私の教授が「おまえはちゃんと言葉を覚えなければいけない」と言って、スイス人しか住んでいない旧市街にアパートを取ってくれ、そこに住むことになりました。ある日を境に、まったく日本人と会わない生活です。そして、午前中は臨床で学生の指導、午後は研究という毎日でした。

――学生の指導というのは、フランス語で現地の学生たちに講義をしたということでしょうか?

石川 そうです。アテネ・フランセで学んだことは全然通用しなくて、技術的なものは持っているけれど、それを伝えるフランス語ができない。患者さんとの会話内容や手術内容のレポートもフランス語で書かないといけない。どうしようかと思っていたら、学生の中に英語のできる人がいて、私は彼に「ちゃんと教えるから、君はおれのためにレポートを書いたり、書き方を教えたりしろ」と言って、助けてもらったりしました。
 今、もう一度そんな環境に身を置いたらと思うとゾッとするけれど、単身海外に渡って、「とにかくここから追い出されたらいけない」と思って必死にやれば、結構できるようになるものです。

――思い切って行くと、そこに何かがある。普通は計算して行くけれども、ぱっと思い込みで行って、だけれど熱意があるから助けてくれる人も現れるということでしょうか?

石川 格好をつけないで素直に飛び込んでいくことですね。そして、にこにこして周りの人にあいさつをする。あまり積極的過ぎるのも異常だけれど(笑)、自然体で必要なことをきちんとやる。そういうのは若さの特権でしょう。あいさつというのは言葉ではないと思う。まず、心と心。すると、次に会ったときに、すっといろいろなことを聞ける。でも、顔を反らしてまともにあいさつしなかったら、次に何か聞いても「あいつ、変なやつだな」となるんじゃないかな。まあ、私も相当変なやつだとは言われたけれど(笑)。

――奥様との出会いはジュネーブ留学時代とうかがっているのですが、その辺りを……。

石川 言葉ができないうちは誰も声をかけてくれないけれど、ある程度言葉が話せるようになってきて、「あいつは面白い人間だ」ということになると、皆がホームパーティーに呼んでくれるのです。日本でいうマンションみたいなところに住んでいて、自宅でパーティーを開く。年頃の男女それぞれ4~5人ずつ、合わせて10人ぐらいで週末は連日のようにパーティーです。ワインを1本持っていく、ちょっと花を持っていく、それでいいのです。すると、自分もスイス人になったような気になる。ある日、「部屋の片隅に変なやつがいるな」と思ってよく見ると、鏡に映った自分だった(笑)。そんなことをしているうちに友達が紹介してくれたのが今の妻です。

――それからお二人で日本にいらしたのですか?

石川 そうです。私の両親に「もしかしたら結婚するかもしれない」と言ったら、「うまくいくわけがないから絶対にやめろ」と言って大反対。向こうの両親は別に何も言わなかった。お互いの国が距離的に離れ過ぎていることも懸念材料だったのでしょうが、妻は「一緒に日本へ行く」と言うので、向こうで結婚式を挙げてしまったわけです。

――情熱的な方なのですね。

石川 いや、あまり情熱的ではなくて、しっかりしているんだけれど……。本当に、なぜ私にほれたのかは、今でも分からないですね(笑)。妻は研究者ではありませんが、私がやっている研究をいつも応援してくれています。結婚してもう40年ですが、仲良くやっていますよ。一方で、40年たとうが考え方が合わないということもしょっちゅうですが、それはある意味当たり前ですよね。

・・・・・・・・・

第2回 「人生は歯のようなものだ」に続く

(インタビュアー:RegMed-now編集室/ 編集:RegMed-now編集室・シーニュ)

*本インタビューのご感想をぜひお寄せください。
regmed-infoabmes.twmu.ac.jp

▲ページトップへ


2. 再生医療トピックス

◇第2回G-COE公開シンポジウム「来たれ!次世代先端医療の挑戦者たち」開催のお知らせ

本G-COE拠点の成果報告シンポジウムを開催します。皆様の多数のご参加をお待ちしております。
日時:2011年11月10日(木) 10:00~17:40
場所:東京女子医科大学 弥生記念講堂
参加費:無料
事前登録:不要
URL:http://twins.twmu.ac.jp/gcoe/2ndsympo

- – - – -

◇第51回 東京女子医科大学学園祭 女子医大祭のお知らせ

日時:2011年10月28日(金)、29日(土)
場所:東京女子医科大学 河田町キャンパス
URL:http://www.twmu.ac.jp/news/seminar/593-51102829.html
○川原先生ご講演
 日時:2011年10月29日(土) 14:00~15:30
 場所: 弥生記念講堂地下1階 臨床講堂1

- – - – -

◇Italy-TWIns-Waseda2011-Bioengineering- 開催のお知らせ

本研究所所長岡野光夫教授とローマ大学のProf. Paolo Di Nardoが大会長を務める国際シンポジウムが開催されます。
日時:2011年11月9日(水) 10:00~
場所:早稲田大学 27号館 小野梓記念講堂
参加費:無料
事前登録:不要
URL:http://twins.twmu.ac.jp/itw2011/

- – - – -

◇第四回シンポジウム「細胞シート2011 ~医療が変わる CSTECが変える~」開催のお知らせ

日時:2011年11月17日(木) 10:00~18:00
場所:東京女子医科大学 河田町キャンパス
参加費:無料
事前登録:不要
URL:http://www.twmu.ac.jp/ABMES/CSTEC/ja/cstec2011/

▲ページトップへ


3. ABMESダイジェスト

東京女子医科大学 先端生命医科学研究所(ABMES)の注目の研究成果をわかりやすくお届けするコーナーです。
<最新論文紹介>

◇細胞シートの早期回収を実現した温度応答性ブロック共重合体ブラシ表面の構築
  松坂直樹ら(Naoki Matsuzaka)ら著

 これまでにリビングラジカル重合を用いてポリ(N-イソプロピルアクリルアミド)による高分子ブラシ表面が作製され、その表面から細胞シートの回収に成功している。本研究では下層に疎水性高分子ポリ(ベンジルメタクリレート)、上層に温度応答性高分子を導入した二層型の温度応答性ブロック共重合体ブラシ表面を作製した。この基板を用いて疎水性高分子層が細胞の接着及び細胞シートの剥離に与える影響について検討を行った。その結果、従来の温度応答性ブラシ表面と比較して、約1/3の時間で細胞シートを回収することに成功した。

Effect of the Hydrophobic Basal Layer of Thermoresponsive Block Copolymer Brushes on Thermally Induced Cell Sheet Harvest
J. Biomater. Sci., Polym. Ed., 2011, Accepted.

- – - – -

◇透き通るハダ!!透明化真皮による自家角膜実質移植
  田中佑治(Yuji Tanaka)ら著

 透明人間になれたらって思ったことありません!?なんと皮膚真皮は冷蔵庫の中で乾燥させるだけで透明になります。さらに架橋処理を施すことで水中でも透明性が維持されます。我々はこの技術を使って家兎の皮膚真皮を透明化し、自家角膜実質移植が可能かを検証しました。

Irreversible optical clearing of rabbit dermis for autogenic corneal stroma transplantation
Biomaterials. 2011, 32(28), 6764-6772.


>>アーカイブ一覧へ

前号 | 次号